明治期の万世大路・大平宿  (福島県福島市)  2013.12        [TOP]  [寄り道]

 

  資料が非常に乏しく、ほとんど謎であった大平宿であるが、明治期の大滝宿の資料を探す過程で、大平宿に関する公文書が発掘された。
  今回、その貴重な資料を提供して頂くことができたので、解析してみた。
   
  まず「大平引受書類」と題される古い公文書だが、これは明治22年(1889)4月の村制施行の際に
  大平宿を含む地域(杭甲岳・兎沢・上小川・与平沢の4地区)が茂庭村から中野村に編入されたことに伴い、
  中野村役場が作成し、中野繁蔵村長より信夫郡長・田中章に提出された文書と見られる。 (田中章は三島通庸・福島県令が連れてきた元薩摩藩士)
  この書類は、編入エリアを示す略図の他、大平宿の住人名簿、集落の平面図などが含まれる、貴重なものであった。
  中でも「宅地として貸与すへき地点 岩代國伊達郡茂庭村字大平ノ内杭甲山」の項には、住所、面積、戸主名が列記されており、
  さらには地籍図も添付されているので、この2つを合わせることで当時の住宅地図を作成することができた。
  掲載は世帯主の住所氏名のみなので、残念ながら家族構成や職業・屋号などは分からない。
  旅籠や運送業を営んでいたとの記録は残っている。
   

  「大平引受書類」 明治22年 「福島県歴史資料館」蔵  
       
   
       
 

 
   

西

 
   
   

 
  撮影:大滝会 渡辺文朝氏    

 


以上の資料を元に、住宅地図を作成してみた。

     

西

         
 

大平宿

     

明治22年

 

備考

 
     

米沢↑

         
      栗子山隧道          
    番地   番地        
  追願者貸与地 13            
  宮本立之進 12   14 渋谷庄右衛門      
  佐藤庄兵衛 11   15 物貨継立点々用地 「陸運物貨継立所」のことであろう  
  浦井只見 10    

 

  (大滝宿では二階堂家が担っていた)  
  佐藤亦蔵 9    

/

     
  斉藤鶴松 8    

| 

     
  猪口源五郎 7    

| 

     
荻原冨右衛門 6    

\ 

   
  ■■■■■■■■■■

■■

小道

         
  中島清三郎 5   16 山田小次郎      
  移住追願者貸与地 4   17 佐藤円蔵      
  小山運次郎 3   18 笠原乕之助      
  皆川嘉重 2   19 渡辺清次郎      
     

小道

■■ ■■■■■■■■■■   幅1間の道  
  移住追願者貸与地 1   20 皆川金之助      
        21 我妻又右衛門      
                 
      二ッ小屋隧道          
      大滝を経て          
      至る福島 ↓          
     

         

 

  大平宿は明治14年(1881)に旧米沢藩の士族20戸が移住して開村した、と記録にあるが、
  それから8年後の明治22年に作成された「引受書類」によると、その時点で残っていたのは17戸と僅かに減少している。
  離村した3戸が住んでいた場所が、「移住追願者貸与地」とある、1、4、13番地の3箇所なのであろうか。
  あるいは20戸が移住予定で宅地も用意されたが、実際に移住したのは17戸だった、という可能性もあるか。
   
  さて、上記書類にて名前が判明したこの17戸は旧米沢藩士であると断定しても良いのだろうか。
  手元に(これもご提供頂いた)米沢藩庁が作成した全藩士の名簿である、「慶応元年分限帳」「明治二年分限帳」があるので、
  上・中・下巻の全ページをめくって、ひとりひとり照らし合わせる、という超絶に地味な作業をちまちまと実施。
  その結果、元藩士であることがほぼ確実な住人は以下の8名であった。 (年齢は数え年)
  --------------------------------------- -----------------------------------------------------------------
  これは米沢市立図書館のデジタルライブラリーにて公開されている、「嘉永二年分限帳」の表紙。

「慶応」「明治」もほぼ同じ仕様なので、参考までに提示しておく。

  --------------------------------------- -----------------------------------------------------------------
   
     
番地 氏名   明治2年時の肩書 左同 禄高 年齢   備考
3 小山運次郎   雷撃隊 二番隊 2俵 24歳    
6 荻原冨右衛門   九番隊 御鉄砲足軽 1人扶持2石 28歳   「萩原」の誤読であろう
7 猪口源五郎   会所番 元御弓 1人扶持2石 12歳   父が早世したのか、まだ少年の家長である
9 佐藤亦蔵   十番隊 御鉄砲足軽 3人扶持2石 17歳   「安蔵」の誤読ではないか
10 浦井只見   外張番 五番隊 隊頭 200石 46歳   元は与板組で、慶応元年当時は3人扶持7石と少禄だった
11 佐藤庄兵衛   九番隊 御鉄砲足軽 1人扶持2石

38歳

  萩原冨右衛門と同じ隊である
12 宮本立之進   与板組 一番隊 半隊頭 50石 30歳   与板組とは直江兼続の旗本のこと。彼はその副隊長だった
17 佐藤円蔵   二之大隊 二番隊 1人半扶持3石 32歳   分限帳では「圓蔵」
   
  この8名を除いた9名も、姓は分限帳に記載があるので、元藩士である可能性が高いと見ている。
  分限帳には名前の載らない、武家の次男・三男なのではなかろうか。
  まあ、希望的観測である。
   
  さらに、昭和7年(1932)の廃村まで残っていた6名が旧米沢藩士かどうか検証してみよう。
   
  我孫子富蔵   両「分限帳」にも「引受書類」にも我孫子姓はない
  吾妻定   「慶応分限帳」に吾妻姓があるが、「明治分限帳」と「引受書類」にはない
  笠原美雄   18番地に住んでいた乕之助の子孫だろうか
  新保代次郎   「分限帳」には新保姓があるが「引受書類」にはない
  羽賀運太郎   「分限帳」にも「引受書類」にも羽賀姓はない
  佐藤好造   よくある姓なので断定は難しい。安蔵か円蔵か庄兵衛の子孫とも考えられる
   
  というわけで、6名中4名に可能性を感じる程度で、断定するまでには至らなかった。
  なお、初代移住者のリーダーではないかと考えていた新保家は「引受書類」に載っておらず、明治22年当時には住んでなかったことが判明。
  元藩士かどうかすら判然としない結果となった。
   
  また、明治20年6月に作成された「陸運物貨継立営業者規約」には、大平:宮本立之進代理 浦井只見とある。 (「福島の町と村II」より)
  宮本家の向かいにある15番地にて、運送業を営んでいたのであろう。
  この2名は両「分限帳」にも「引受書類」にも記載されており、与板組というエリート出身で、しかも比較的高禄であった。
  この2名が大平宿のリーダー格だったと思われるが、昭和の廃村を待たずに大平を離れている。
   
  また、「明治32年3月に大平分教場が廃止された」との記述があった。 (「福島の町と村II」より)
  大平には学校があったのだ。
  場所は最も面積が広い13番地であろうか。 設置年は不明だが、おそらく大滝と同じ頃(明治23年)であろう。
  教師は学校に併設された宿舎にでも住み込んでいたか、それとも大滝辺りから通っていたのだろうか。
  学校があったこの10年余りが最も繁栄した時期だと思われる。
  集落衰退の原因となる奥羽本線・福島〜米沢間の開業も、同じ明治32年の5月のことであるが、
  すでに大平の人口減は始まっていたようである。
   
 
   
  「分限帳」と「引受書類」の記述を合わせ、住宅地図に加筆、氏名の誤読を修正し、さらに年齢を追加してみた。
  赤文字は旧米沢藩士であると確認できたものである。
  「明治二年分限帳」では数えで12歳だった猪口少年が、32歳の壮年になっている。
   
       

西

       
 

大平宿

         

明治22年

 
       

米沢↑

       
        栗子山隧道        
      番地   番地      
  追願者貸与地   13          
  宮本立之進 50歳 12   14   渋谷庄右衛門  
  佐藤庄兵衛 58歳 11   15   物貨継立点々用地  
  浦井只見 66歳 10      

 

 
  佐藤安蔵 37歳 9      

/

 
  斉藤鶴松   8      

| 

 
  猪口源五郎 32歳 7      

| 

 
萩原冨右衛門 48歳 6      

  ■■■■■■■■■

■■■

■■ 小道        
  中島清三郎   5   16   山田小次郎  
  移住追願者貸与地   4   17 52歳 佐藤円蔵  
  小山運次郎 44歳 3   18   笠原虎之助  
  皆川嘉重   2   19   渡辺清次郎  
       

小道

■■ ■■■ ■■■■■■■■■  
  移住追願者貸与地   1   20   皆川金之助  
          21   我妻又右衛門  
        二ッ小屋隧道        
        大滝を経て        
        至る福島 ↓        
       

       

地籍図にも誤読を修正の上、名前を書き込んでみた。

これで明治中期の大平宿の様子が、ほんの少しだけ見えてきた。

 


 

   
  これは昭和の大改修の際に作成された、大平の路線実測図である。
  道路拡幅(盛土して路面を5m嵩上げ)により宅地が潰地となるため、昭和7年(1932)に残っていた6戸の退去が命ぜられ、全世帯が大滝に転居した。
  世帯主は我孫子富蔵、吾妻定、笠原美雄、新保代次郎、羽賀運太郎、佐藤好造、である。
   
  斜線が入れられた四角は、当時現存していた住宅や倉庫、作業小屋だろうか。大小様々である。
  国道南の西側一帯が暮らしやすかったのか、家屋の残存率が高いようだ。
  栗子山隧道の改修工事は昭和9年(1934)春に着手されるのだが、現場の施設が整うまでは大平の廃屋を再利用していた。
  民家4軒、炭小屋7軒を改修し、現地事務所や宿舎としていたとのこと。実測図を見ると、残っていた建物のほとんど全てを利用したようだ。
  ここから1.2km離れた栗子山隧道の改修工事現場まで歩いて通っていた。
 

「栗子トンネル工事誌」より転載

   
昭和9年(1934)に撮影された大平宿の貴重な写真。

廃村となって2年が経過した姿である。

意外と大きな建物が、道(言うまでもなく国道・万世大路である)の両側に並んでいる。

中央の人物の奥にトラック、その奥は木橋だった頃の大平橋だろうか。

正面の山は、国土地理院図には名のない1202m峰であろう。

あの左の鞍部下を栗子山隧道が貫いている。

HP「わが大滝の記録」より転載・加工

 

 

   
  あまり意味のないお遊びであるが、明治の地籍図と昭和の実測図を、推測を交えつつ合わせてみた。
  笠原家は既になく、空地になっていたようなので、
  集落内での転居がなかったとすると、昭和7年に大滝に移住した笠原美雄は米沢藩士の子孫ではないことになる。
  一方、佐藤家は3軒とも残っているので、佐藤好造は3家いずれかの子孫である可能性が考えられる。
   
  佐藤好造の名は、大滝の山神神社に現存する明治36年(1903)の銘がある湯殿山碑に見ることができる。
  当時、大平に住んでいた彼は大滝の人々と共に湯殿山に参拝し、その記念として石碑を神社に奉納したのであろう。
  その彼も、昭和7年には笠原ら大平住民と共に大滝に移住することになるのだが、
  笠原美雄は昭和30年代までに大滝を去り、佐藤好造も昭和51年までに転出している。
   

ここまで

 


     
  <大平宿からの移住者>                                「大滝宿」の項から引用
  昭和7年(1932)、大平宿から6世帯が移住してきた。
  各情報・証言を合わせると、世帯主は我孫子富蔵、吾妻定、笠原美雄、新保代次郎、羽賀運太郎、佐藤好蔵、とのこと。
  そのうち米沢藩上士名簿と姓が重なるのは新保のみ。
  新保家は席次第34位・禄高200石の揚北衆とのことだが、代次郎が同家の人かどうかは確認が取れていない。
  もしかしたら大平に入植した士族のリーダー的存在で、ゆえに最後まで残っていたのかも知れない。
  他の5世帯は元藩士かどうか不明。
   
  我孫子は当初高野家脇の土蔵を借りて住んでいたが、のちに葭沢に家を構えた。
  吾妻は大滝移住の1〜2年後に再び転出。(昭和10年時には蒲倉bが代わって入居)
  笠原、新保、羽賀も昭和30年代までに大滝を去り、残った2世帯・佐藤、我孫子も昭和51年までに転出している。
  大滝には耕地が少なく、大平の畑に通うには遠過ぎたのであろう。 こうして「大平組」は大滝から全て消えた。
  また、蒲倉a、熊坂は大滝から大平に移住したが長く続かず、再び大滝に戻ってきたとのこと。(蒲倉aとbは兄弟)
  大平宿への転入出はかなり激しかったようだが、裏付ける資料・証言が非常に少なく不明な点が多い。 (元住人・伊藤氏、渡辺氏の証言による)
   
  大平で生まれた女性が米沢の高橋家に嫁ぎ、その子が年老いた今でも米沢に在住しており、
  幼少の頃、母親と一緒に大平に帰省する度に、栗子山隧道を通り抜けていたことを記憶しているとのこと。
  栗子隧道ではなく、明治の素掘り隧道通行の記録は大変希少である。
  「1mほどの棒を持ち、壁に当てながら歩いた」
  「真っ暗な中でつまづいて転び、棒や帽子を探している内に方向が分からなくなって、また入り口の方に来る人もいた」
  「馬車で運ぶものもあったが、馬は暗い所に入って行くのを嫌うので、空き缶に布と油を入れて照明としていた」との記録が残る。
  ちなみに、開通当初は両坑口に照明用の火を灯しており、通行人から油代として1銭5厘を徴収していた、とのこと。
  (「万世大路を歩く」より)
  ・大平宿
  明治14年(1881)の万世大路開通と同時期に旧米沢藩士20戸が移住して運送業や宿屋を営んでいたが、奥羽本線開通の影響を受けて衰退。
  昭和に入って万世大路に車道化改修工事が成されることになり、
  その際、大平は道路拡幅(盛土して路面を5m嵩上げ)により宅地が潰地となるため、全戸退去が求められた。
  昭和7年(1932)、大平に残っていた全6世帯が退去。全世帯とも大滝に転居(空家を買う、借りる、間借りなど)した。
  翌年から改修工事が着工されたが、当初大平の廃屋を補修して現地事務所や宿舎として再利用していたと言う。
   
  23蒲倉高松の隣に住んでいたのが24吾妻定。 吾妻離村後に、高松の子・徳次郎が24に入居。
  徳次郎の兄弟・蒲倉要は大滝→大平→大滝、と移り住んだ。 父・高松を継いで23に定住。

 

<メモ>

番地    

嘉永2年分限帳(1849)

 

慶応元年分限帳(1865)

 

明治2年分限帳(1869)

14 渋谷庄右衛門       23家 なし   なし
16 山田小次郎   多数   56家 なし   なし
17 佐藤円蔵   多数   名前読めず 中4P27 二之大隊二番隊 1人半扶持3石 32歳
11 佐藤庄兵衛     下P33右 御鉄砲 1人扶持2石 34歳   下3P43 九番隊御鉄砲足軽 1人扶持2石 38歳
9 佐藤亦蔵     229家 なし    
         

「安蔵」ではないか

中9P37 十番隊御鉄砲足軽 3人扶持2石 17歳
18 笠原乕之助       6家 なし   なし
         

正式には「笠原虎之助」

  なし
19 渡辺清次郎       なし   なし
20 皆川金之助       8家 なし   なし
2 皆川嘉重       8家 なし   なし
21 我妻又右衛門       なし   なし
          嘉永5年6月家督   嘉永5年8月家督
12 宮本立之進  

6家 なし

  上P20右 宮本虎太郎 与板 25石 26歳 下4P21 一番隊与板 半隊頭 50石 30歳
              ・与板組(直江兼続の旗本)のNo.2
10 浦井只見   上P124 3人扶持7石   上P22左 与板 3人扶持7石 42歳   下5P32 五番隊外張番 隊頭 200石 46歳
              ・大幅に加増
8 斉藤鶴松       69家 なし   なし
7 猪口源五郎       下P21左 会所番 元御弓 1人扶持2石 8歳   下2P42 元御弓 1人扶持2石 12歳
6 荻原冨右衛門       下P31左 御鉄砲 1人扶持2石 22歳   下3P39 九番隊御鉄砲足軽 1人扶持2石 28歳
  原冨右衛門            
5 中島清三郎       21家 なし   なし
          清太郎 中P11左 御扶持方 1人半扶持3石 36歳    
3 小山運次郎       18家 なし 下13P22 雷撃隊二番隊 2俵 24歳
               
 

大滝移住者

 

昭和7年(1932) 

       
  我孫子富蔵           X 「安孫子」、「我彦」ならあり
  吾妻定       あり   X
  笠原美雄           あり
  新保代次郎           あり
  羽賀運太郎           X 「芳賀」ならあり
  佐藤好蔵           あり
               

 

福島県関連

           
  山吉盛典   県令 幼名・新八 父・盛芳   文政8年10月家督
上P15右 新八 五十騎 三十人頭 200石 54歳
  明治元年8月家督
上2P12 新八 御使番 200石 35歳
  政恒   県典事
米沢藩与板組・上与惣兵衛政済
(御用人百石)の長男 幼名・与七郎
明治5年9月、上姓から中條姓に復帰
  上P5右
若殿様御附 御用人 上与惣兵衛 100石 48歳
  慶応3年9月家督
上2P11 御使番 上与七郎 100石 29歳
  立岩一郎   開拓出張所長 桑野村長
1839生 幼名・秀助
父・立岩善五郎秀年 200石
  上P21右 善五郎 与板 十人頭 80石 62歳   明治元年5月家督 (慶応4年3月説)
泰蔵 下5P5 三番隊与板 31歳
明治4年10月 一郎に改名
  内藤新一郎   山本八重一家が間借り   上P11左 御馬廻 御螺吹 1人扶持四石 22歳   中7P35 御馬廻 御螺吹 1人扶持四石 26歳
 

- - -

           
  宮島誠一郎   父:右筆・宮島一郎左衛門吉利
200石
  祐筆に「宮島」なし   慶応3年10月家督
上1P50 公議人添役 100石 32歳
  雲井龍雄
小島守善
小島辰三郎
  実父:中島惣右衛門
養父:小島才助
  上P24左 代官所元〆役同格共 格御荷物蔵役
2人半扶持拾壱石
   
 

大滝関連

           
  近野次郎太   大滝惣代人        
  佐藤飯太郎            
  近野庄右衛門
近野元右衛門
  大滝       上7P26
紺野六郎兵衛 一人扶持 58歳 畔藤村代官所
  佐久間伴右衛門   堰場        
  須藤兵八郎   大滝   上P21左 平八郎 与板 外張番組頭 200石 58歳   明治元年7月家督
下4P36 二番隊 与板 隊頭 200石 40歳
  渡辺要七   中屋        
  高野幸吉   宮内屋        
  半田多五右衛門   西村屋?        

       

山吉盛典

 

中條政恒

 
               
  天保6年 1835   米沢藩・林辺忠政の次男として生まれる      
        幼名:佐久馬      
  天保12年 1841       米沢藩・与板組・上与惣兵衛政済の長男として生まれる  
            幼名:与七郎  
               
        山吉家の養子入り 幼名:新八   12才時に古藤伝之丞と共に、世子上杉茂憲の学友に選ばれる  
               
        M1、8月家督   慶応3年9月家督  
            明治5年9月、「上」姓から「中條」姓に復帰  
            福島県典事として転出  
            安場保和県令により開拓掛に任命、安積開拓に取り組む  
            明治14年8月、太政官少書記官に転任、  
            明治17年12月、太政官大書記官に昇進  
            明治19年7月、島根県大書記官に転出  
            明治30年6月、家族ととも桑野村に移り住み  
            明治33年4月14日、桑野村で59才の生涯を閉じた  
               

 米沢藩士・須藤兵八郎   与板組 二番隊隊頭 200石

         
        心地流 須藤兵八郎久明
        米沢藩では、藩主の上杉斉憲、その子の上杉熊松が心形刀流を学んでいた。
幕末期には須藤兵八郎他が伊庭道場で稽古していたという記録が残っている。 wiki
  明治5年 1872   7月、上花沢信濃町須藤兵八郎宅を仮教室とし、第一学校と称した。米沢における小学校の初め
        華渓学校(東部小学校の前身) 須藤兵八郎が剣術指南の道場で、彼はその後消防の隊長になった
  明治7年     安場県令の指示により、(略)日ノ峠の北側を経て、明神峠を越えて赤浜まで(略) 「ふくしまの峠」 人名なし
  明治7年 1874   中野村の木村善吉と、米沢藩士・須藤兵八郎が、新道調査のため小川沿いを遡上して日野峠を抜け、米沢に抜ける
  明治8年 1875   その結果を元に、日野峠を越える新道開削願を提出  「福島の町と村2」
       

(「明治20年中野村実測絵図面」に、「九十七番 字日ノ峠」あり)

  明治9年 1876   着任間もない十月、三島は権大属高木秀明に命じて新路線を調査させた。
権大属という身分は、現在の県課長にあたるものと思われるが、
高木は十月十三日米沢に到着、須藤兵八郎(注四)を伴って栗子山にわけ入った。
〔注四〕
旧米沢藩士。上花沢信濃町で剣道指南をしていた。東部小学校の前身華渓学校創設者のひとり。
  明治9年     10月、山吉県令自ら、僚属を率いて(略)、二ツ小屋に野宿し(略) 「ふくしまの峠」
  明治15年     大滝の須藤兵八郎が、大平に郵便取扱所を設置し、その取扱いをさせるよう願い出る。 「福島の町と村2」
         

 

S8

冬の夕刻、山田美好氏は削孔に挿入されていた破砕用爆薬の不発に気づかず削岩機をあてがったため、不発火薬が爆発した。

削岩機を握っていた右手の第2,3,4指の3本が切断されたが、洞外は猛吹雪で医師もいない。やむを得ず、スキー団を組織し

主に佐藤彦七氏が山田氏を背負って夜半までかかり大滝部落(1977年廃村)まで下った。医師はいない部落であったがそれ以上

進むのが不可能であったため1泊することになった。厳寒の折、負傷者をこたつに休ませたが、それがあだとなり化膿が進んだ。

 翌朝同様の方法で円部まで進み、そこから大原病院までは自動車で搬送した。

 

 

 

 

 

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